日本で綿作が全国各地に広まったのは江戸時代中期以降。
中でも遠州は良質の綿産地で、全国に先駆けて機織(はたおり)が盛んな地域として知られていました。
特に1845年浜松藩主の井上河内守正春が藩士の内職として機織を奨励したことから、ますます当地域に独特な縞木綿(しまもめん)と呼ばれる織物が生まれ、特徴を活かしながら発展。当時交易の盛んだった笠井の市で取引されたことから笠井縞(かさいじま)と呼ばれました。地域の綿織物はやがて取引市場の広がりから「遠州縞(えんしゅうじま)」と総称されるようになったといわれています。
ここで、「遠州織物の母」と呼ばれている一人の女性を紹介しましょう。名前は小山みゑ(1821年生)。彼女は藩士の家に奉公して織物技術を習得、数名の工女を雇い、現在の浜松市中区木戸町で織物業をスタート。遠州綿織物を一大産業に成長させる土台を築きました。そこで働く工女たちがやがて各地に嫁ぎ、機織技術を広めていったのです。
技術が広がると、中には質の悪い製品も出回るようになります。そこでみゑは「永隆社(えいりゅうしゃ)」という織物同業組合を作り、さらに働きやすさを提供することで織物の質を向上させていきました。
その後、明治11年に臥雲辰致(がうんたつむね)発明の和式紡績(ガラ紡)が三河方面から移入され、明治17年には天竜二俣に遠州紡績会社設立。明治29年には豊田佐吉による小幅力織機(こはばりきしょっき)が発明され、織物生産はみるみる増加していきました。
こうして昭和初期まで遠州織物業は繁栄を極めますが、1970年代以降になると、化学繊維の普及や海外生産へのシフトによる大量生産の波を受け、少しずつ生産が少なくなっていきます。
しかしそれ以降も、変わらぬ愛情を持つ職人さんたちの手によって、柄数を増し品質向上を図り、今もなお織り続けられている・・・それが遠州綿紬なのです。